人間が切り拓き築いてきた道には、シルク、香辛料、紙、陶磁器、宝石などの交易の道、キリスト教などの宗教の巡礼や信仰の道、人や物を運んだ運河、鉄道などの輸送や移動の道など多様です。
これらボーダレスな交易の道、信仰の道、輸送や移動の道は、途上の文化、産業、都市を開花させ、やがては、人類にとっての文明の道へと進化していきました。
例えば、シルクロード。NHKが1980年からNHK特集「シルクロード」 を放送し大ヒットしました。NHKが、25年ぶりにNHKスペシャル「新シルクロード」(放送80周年日中共同制作)を取り上げ、今再び、シルクロードが脚光を浴びています。
ヨーヨー・マによるテーマ音楽のチェロ、中国琵琶、笙、馬頭琴、二胡、タブラ、カマンチェなどの楽器の音色が、私たちを悠久の大地と郷愁の世界へと誘ってくれます。
シルクロードとは、広くユーラシア大陸の東西を結ぶ東西交通路で、中国の西安からイタリアのローマまでを繋ぐ道であったと言われています。
タクラマカン沙漠や天山山脈を越えて、 西アジアへは、崑崙(こんろん)の軟玉、中国の絹織物などがもたらされ、地中海および西アジアの国々から中国へは、トルコ石、ガラス器、トンボ玉、金銀器等がもたらされたとされています。
シルクロードという言葉は、中国の敦煌(とんこう 甘粛省)や楼蘭故城(ろうらんこじょう 新疆ウイグル自治区)を発見したスウエーデンの地理学者スヴェン・アンダース・ヘディン (1865〜1952年)の師でもあるドイツの地理学者リヒトホーフェン(1833〜1905年) が1878年に著した著書「シナ」全5巻の第1巻で、唐の都の長安(現陝西省西安市)から旧ソ連(現ウズベキスタン)のサマルカンドまでを「ザイデンシュトラーセン( Seidenstrassen
)」(「絹の道」の意)と表記し、これが英訳されて、ヨーロッパでは「Silk Road」が知られるようになったと言われています。
サマルカンド(古名マラカンダ)は、シルクロードの重要なオアシス都市として、古くから交易によって発展しました。1220年にチンギス・ハーンが率いるモンゴル軍によって一度壊滅しましたが、当時の町の廃墟が、後にティムールが築いたサマルカンド・ブルーの美しいイスラム教建築物群があるレギスタン広場の北東にあるアフラシアブの丘に残っています。
また、同じく、シルクロード有数の交易都市として繁栄したブハラ(ウズベキスタン)にもシルクロードゆかりの交易所、キャラバン・サライ(隊商宿)、公衆浴場の跡が残されています。
シルクロードは、平坦、直線的ではありませんが、一般的に、
●中央アジアの乾燥地帯を走ったオアシスの道(オアシス路、オアシス・ルート)
洛陽→長安→銀川(寧夏回族自治区)→河西回廊→敦煌(莫高窟、鳴砂山)→陽関、玉門関→トルファン→ウルムチ→
タクラマカン砂漠北側・天山山脈南麓(天山南路)→カシュガル(新彊ウイグル自治区)→パミール高原→
西トルキスタン(現在のカザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン)→イラン砂漠→
アナトリア高原→イスタンブール、或は、地中海→ローマ)
張騫(ちょうけん ?〜紀元前114年)、玄奘(げんじょう 602〜664年)、
法顕、マルコ・ポーロ(1254〜1324年)が辿った道。
●その北の草原を抜けた草原の道(ステップ路、ステップ・ルート)
モンゴル高原→天山山脈(天山北路 哈密(はみ)→巴里坤(ばりこん)→吉木薩尓(じむさる)→博楽)→カザフ高原→
南ロシアの草原地帯→ヨーロッパ
アッティラ(406年頃〜453年)、チンギス・ハーン(太祖 1167年頃〜1227年)が大遠征に使った道。
●アジア大陸の南の海を結んだ海の道(南海路、海洋ルート)
南シナ海→マラッカ海峡→インド洋→アラビア海→紅海、ペルシャ湾
マルコ・ポーロ(1254〜1324年)がベネツィアへの帰路。
海路による柿右衛門や古伊万里の輸送ルート。
の陸路と海路の三つのルートがあったとする見方が有力です。
これらのルートには、シルクロードゆかりの遺跡、建造物群、モニュメントが数多く残っており、それらのうち、顕著な普遍的価値を有するものについては、関係国からの推薦によって、ユネスコの「世界遺産リスト」に登録されています。また、中国においては、これまでに登録している莫高窟などとは別に、今後の世界遺産候補として、「シルクロード」(絲綢之路)を暫定リストにノミネートしています。新疆ウイグル自治区のクチャ、トルファン、ウルムチに残っているシルクロードゆかりの都跡や千仏洞などが対象になっています。
シルクロードと同様な交易の道として、アフリカのサハラ砂漠を横断した「ソルト・ルート」(塩の道)があります。サハラ砂漠は、アフリカの北部にある世界最大の砂漠で、アラビア語で「荒れた土地」を意味する様に、サハラは、文字通り、不毛の大地です。塩は、熱砂の厳しい生活環境の中で、死活にかかわる貴重な資源でした。いつしか、ラクダの隊商がニジェールやマリなど多国間を横断するサハラ砂漠を行き交うようになり、ソルト・ロードが出来上がったといわれています。
これら、果てしない旅路と航海、いつ着くか計れない、また、広漠、荒涼とした空間は、不安と期待の思いが交錯するなか、地道な足取りと舵取りであったに違いありません。単調なれども周辺の環境が変化する中、旅人の心に去来するものは何だったのでしょうか。自己の心との対話、或は、求道の道だったのでしょうか。
旅人の疲れを忘れさせてくれる雄大な自然や風景との出会い、疲れを癒す途上の隊商宿、そして、自分と同じ旅人との語らいは、心に安らぎを与えてくれました。
気が遠くなりそうな道程、喜び、怒り、哀しみ、楽しみの感情は、人生のそれにも似て、人々に感動と共感を与えてくれます。
それは、とてもドラマティックな先人が築いた軌跡であり、人類の偉業です。果てしない夢とロマン、サクセス・ストリーも千三(せんみつ)ですが、諦めない、挫けない、弛まない、地道な努力を継続していくことの大切さを私たちに教えてくれています。
一方、日本の国内に話を転じてみますと、シルクロードも長安(現西安)から中国国内を経て、或は、海のルートから、日本の伊万里、奈良、平泉などへと繋がり往来が行われたものと想定されます。
日本は、島国であるが故に、仏教やキリスト教などの宗教、絹や陶磁器などの交易が行われ、伝来の道、交易の道、通信の道など大陸、半島などからのルートが出来上がっていったに違いありません。
例えば、キリスト教を日本に初めて伝えたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエル(1506〜1552年 スペイン生まれ)は、マラッカ(マレーシア)を経由して、1549年(天文18年)に、薩摩の山川、鹿児島に上陸、その後、肥前の平戸(ひらど)、周防の山口、京都、そして、再び山口、そして、豊後の大分府内という経路を辿り、日本に2年3か月滞在後、種子島を経由して、日本を去ったとされています。
フランシスコ・ザビエルが日本に滞在したのは、わずか二年数ヶ月ですが、その後の日本におけるキリスト教の普及に大きく貢献し、彼の思いは、ルイス・フロイス、アレッサンドロ・バリニャーノ、ジョバニ・バチスタ・シドッチなどに引き継がれていきました。
フランシスコ・ザビエルゆかりのモニュメントや教えが、インドのゴアやコチン、マレーシアのマラッカ、中国のマカオのコロアン島、そして、日本各地に今現在も数多く残されています。このうち、フランシスコ・ザビエルの遺体が安置されているインドのゴアの「善きイエス(ボム・ジェス)」の名を持つ「ボム・ジェス教会」は、聖フランシスコ修道院などと共に「ゴアの教会と修道院」(Churches
and Convents of Goa)として、1986年にユネスコの世界遺産リストに登録されています。
また、キリスト教が認知されるまで、時の権力者等から信者は、はかりしれない迫害を受けた悲しい歴史もありますが、今では、日本各地にキリスト教の教会やキリスト教系の学校も数多くあり、フランシスコ・ザビエルの当時の思いは、長い歳月を経て実現しています。
この様に、日本国内においても、布教の道、信仰の道、行列の道、商いの道、輸送の道など多様な道が形成され、沿道の集落も繁栄し、村、町などへと発展していきしました。
長い歴史の中で、地点と地点とを繋ぐ道は、やがて街道となり、それは、文化の道(Cultural Road)、ルート(Cultural Route)、旅程・行程(Cultural Itinerary)へと発展し、なかには、人類にとっての文明の道へ繋がりました。
文明への道、これは、黎明への道であり、栄光への道でもあります。私たちは、先人達が築いた道を大切にし、未来へと継承していかなければなりません。一方において、私たちは、先人達が残したかけがえのない遺産を守っていくだけではなく、私たち自身が21世紀の文明を創造し、将来世代の為に残していきたいものです。
古田 陽久
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