私が生まれ育ったまち呉の思い出 |
私は、「水兵と職工と商人のまち」呉(くれ)に生まれた。横浜では、「桜木町事件」のあった日であった。 私は、高校卒業までの18年間を、両城という住宅のまちで育った。両城には急傾斜地が多く、「階段住宅」「二百階段」「七曲り」でも有名であり、しばしば、映画やテレビのロケ地にもなってきた。 自然環境も豊かで、小さい頃には、八畳岩、一本松、砲台山などの里山や瀬戸内海が眼下に展開する農道などで遊んでいた。団塊の世代は、両城地区も例外ではなく、大家族、多子の賑わいがあった。 当時は、戦時中の防空壕も数多く残っており、遊び場にもなっていた。 両城地区は、昭和初期に民間で開発され、「階段住宅」は施工された住宅団地である。平地の少ない呉市では住宅の適地が少なく、海軍関係者の住宅需要を前提に、崖のような急傾斜地も宅地化された。 特に、両城の「二百階段」で知られる両城地区には、みごとな石垣のうえに建てられた住宅がまとまって残っている。これらは和風の建物と洋館をつなぎあわせた、当時流行した形のものもあり、戦災をまぬがれ今なお往時のたたずまいを伝えている。 「階段住宅」には、戦時中は、海軍の幹部の官舎、戦後は、企業、官庁、学校などの管理職の社宅などが立地した。 また、教育熱心なまちで、大学進学率も高く、奥原義人氏(元呉市長、呉信用金庫理事長)、草道昌武氏(京都大学→日商岩井)、奥原信也氏(慶應義塾大学→広島県議会議員)、小早川正昭氏(慶應義塾大学→日本テレビ)、杉峰英憲氏(京都大学→奈良女子大学教授),、それに、脚本家の池端俊策氏など多くの優秀な人材を輩出している。 今では、空地や空家が目立つ両城のまちになってしまった。私の育った実家も、普段は、空家となっているが、私にとっては、「心のふるさと」であり、安息の場所として、そして、戦禍をまぬがれた昭和初期の民家なので、大切に保存し活用していきたいと考えている。 私の実家は、七曲りの上段部の石垣の上に建っている木造の日本家屋で、屋根は石州瓦(2012年に改修済み)、二重屋根、白壁、赤レンガの外塀、母家へは石段になっている。 何よりも嬉しかったのは、私の実家の赤レンガの塀や親父が町内会の人たちと植えた桜の木々に咲く桜花がNHK総合の番組で取り上げられ全国放送されたことだ。私も、番組内のインタビューで登場している。 ●NHK総合 「ゆうどき」<行ってみたい>『レンガが息づく港町(広島県呉市)』 (2014年4月11日) ●NHK総合「ウイークエンド関西」「西日本の旅」レンガが息づく町〜広島県呉市〜 (2014年4月5日 ●NHK総合「おはようちゅうごく」「西日本の旅」レンガが息づく町〜広島県呉市〜 (2014年4月5日) ●NHK総合「おはよう四国」「西日本の旅」レンガが息づく町〜広島県呉市〜 (2014年4月5日) ●NHK総合「おはようサタデー九州沖縄」「西日本の旅」レンガが息づく町〜 広島県呉市〜(2014年4月5日) ●RCCテレビ「お宝ハンターくれきん団」〜生活に根付くレンガ色の風景〜 (2016年4月22日) 私の家から上を見上げると呉市立両城中学校、「二百階段」、また、農道へ行く途上では、呉湾、それに、呉市内を見渡すことができる。 また、更に、里山の両城山には、広島新四国八十八ケ所霊場 第四十八番「両城山」の「観音寺」がある。古くから、両城山には、弘法大師を祀る堂があったといわれている。 明治20年に呉海軍鎮守府が設置された時、初代長官の中牟田倉之助が、鎮護国家、海上安全等を願って、仏像等を勧請している。 呉市は長い歴史を有する。呉市の発祥の地は、江戸時代の1686年(貞享3年)頃に安芸郡宮原村呉町としての誕生に遡る。呉町(くれまち)は、旧帝国海軍の調査のもと、1889年(明治22年)に海軍区としての「呉鎮守府」開庁に伴う用地買収で接収されて町が消滅するまでの約200年間にわたって続いた。 長年、呉(くれ)のことを題材にした歌が作れないか、漠然とながら模索してきた。私は、作曲はできないので、専ら作詞である。作曲してくださる方、また、ただ作るだけではなく、歌ってくれる人がいなければ意味がない。 こういう伏線のなかで、「くれ町通り」プロジェクトは始動した。 私は、趣味の一つがウオーキングである。ある時、「くれ町通り」という石柱を目にした。聞き慣れない名前であった。早速、呉市に問い合わせた。 「くれ町通り」とは、市民広場の西側、めがね橋(幸町)から子規句碑前(宮原5丁目)の約1300mの街路のことである。江戸時代の初期から明治時代の初期(1686年〜1872年)までの約200年間、この一帯は呉市発祥の地、「呉町」(くれまち)だったことに由来する。 呉中央桟橋と海上自衛隊呉地方総監部の間の街路は、春は、コブシの花が印象的。市民広場((旧日本海軍呉海軍練兵場))と海上自衛隊呉地方総監部の間は、きれいな松並木だが、警固屋方面に約500m行くと、少し高台になった宮原通りがある。「歴史の見える丘」からは、呉湾が一望でき、眺めは絶景で、造船所の大型ドックや巨大クレーンがすぐ眼下に見える。旧海軍の戦艦「大和」を造ったドックも見られる。 終点は子規句碑前、「呉かあらぬ春の裾山灯をともす」と近代俳句の父、正岡子規は呉のまちの情景を詠んでいる。 「くれ町通り」という名称は、1987年(昭和62年)3 月、呉市が自分の住むまちに愛着と誇りが持てるよう、入船山公園周辺の3街路の愛称を公募し入選した「くれ町通り」「美術館通り」「青山通り」の一つであった。 この「くれ町通り」という曲名の歌をつくってみようと思った。いろいろなストーリーを思い浮かべるなか、呉に生まれ呉で育った女性の心情を歌う構成にした。呉は戦艦「大和」に象徴される様に男性の町のイメージが強かったからである。 本当はラブ・ストーリーなどドラマチックな感性を揺さぶる様な女性歌手による歌唱をと思ったが、なかなか簡単ではない。 「悠久の石橋の町」は、初演は、2022年5月29日に熊本県立劇場で開催された熊本県合唱祭で合唱曲(コーラス)としてデビューしたが、「くれ町通り」は女性の独唱曲(ソロ)での初演を予定している。 |
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呉湾を望む |
農道から呉湾、両城墓地を望む |
七曲りと父親等が植えた両城桜 |
映画「海猿」のロケ地にもなった二百階段 |